自由を求めて不自由を感じるというジレンマ~今日はちょっとネガティブな話~
最近停滞感を感じています。
自由を目指しているはずなのに、今までに感じたことのない不自由を感じます。
ジョーシキと言われるような中だけで生きて、それを「そういうものだ」と受け入れて生きる方が、実は不自由だと感じることは無いんじゃないかと思えてきます。
ジョーシキを破った人から見れば、ジョーシキの中で生きている人は不自由でしょう。
ですが、ジョーシキに耐え、その枠内での自由を味わえるようになれば、もしかしたら不自由だという自覚は無くなるんじゃないでしょうか。
今の僕は、ジョーシキを破ろとしていると言えるほど大したことはしていません。
だけど、少なくとも、今まで生きてきた枠を出ようとしていることは確かです。
そこで、不自由を感じています。
今までのジョーシキの枠内、周りのジョーシキの枠内に合わせていれば、きっとそんな不自由は感じないでしょう。
だから、ジョーシキの枠内で、誰とも衝突せず、誰の気分も害さないように息を潜めて生きたほうが楽なんじゃないか。
自分は一体何のために自由を求めているんだろう?
そういう思いが頭をよぎることがあります。
大海があるとは知らずに水槽の中で泳ぐ魚。
水槽の中では自由に泳げます。
エサも決まった時間に与えてもらえます。
外敵も居ません。
その魚は、「大海で自由に泳げない」という不自由に置かれていると知らずにいれば、一生不自由を自覚せずに済みます。
大海に出ようと思えば、様々な苦難があるはずです。
いざ大海に出ても、外的に食べられるかもしれないし、エサも自分で取らねばなりません。
水槽に居た時とは全く違う不自由を感じるはずです。
だけど、水槽の中では味わえない、大きな自由が与えられます。
どちらがいいのか、分からなくなる時があります。
今日は少しネガティブな話でした。
明日以降は、またポジティブな内容にします!!
↓この記事を気に入っていただけましたらクリック(投票)お願いします