心を鍛える〜「凡事徹底」(鍵山秀三郎さん著)を読んで②〜
■昨日に引き続き、凡事徹底を読んで。
昨日は、鍵山秀三郎さんの「小さく生きて大きく遺す」という考え方、また、それには及ばないものの、僕も出来るだけ使わないという考え方を実践していることを書きました。
心を鍛える〜「凡事徹底」(鍵山秀三郎さん著)を読んで①〜 - 意識的に生きる。
■何の得があるのか?
鍵山さんの考え方、僕が実践するようになった考え方に対しては、
「それをやると、どうなるの?」
「それをやると、どういう得があるの?」
という疑問が湧くかもしれません。
その答えは・・・正直、よくわかりません。
鍵山さんも、昨日引用した中では、
実にいろいろないいことがたくさん起こりました。
としか述べておられません。
そもそも、その「いいこと」が、枠を小さくしたことによって起こったことなのかも、証明はできません。
それに、こちらがどれだけ小さく使ったって、相手がそれに気付かないという可能性も十分あります。
■それなのになぜやるか?
僕は、「それをやったからどうなる」という短絡的なことではないと思います。
究極、自分のため、つまり自分の心を鍛えるためではないかと思います。
気付いてもらえるか・もらえないか。
誰かが見ているか・見ていないか。
そういうことは無関係に、やる。
それが、自分の心を鍛えるということです。
「使おう、使おう」と思うと、貪欲になってしまいます。
「もっと使えるものはないか」
「損してないか」
「元は取ったか」
と考えてしまいます。
一方、「使えるものでも、使わないでおこう」と考えると、そういう貪欲な考えが少なくなるはずです。
■最後に。
結局、「どういう人間でありたいか」という設定次第だと思います。
どれも間違いではありません。
筋トレでもそうです。体を鍛えても、鍛えなくてもいい。鍛えたいから鍛える。
心も同じで、鍛えても、鍛えなくてもいい。鍛えたいから鍛える。
鍵山さんは、こうもおっしゃいます。
いつも枠を使いつくさないで小さめに使うと、与えられる枠が次々と大きくなっていって、おしまいには無制限になります。
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