■ 苦しそうなオトナ
電車の中、街中などで見かける働くオトナたち。
僕には、「苦しそう」に見えて仕方ありません。
顔をしかめ、眉間にシワを寄せ、下を向いて歩く、まるでたどり着きたくないようにのろのろと歩く、大きなため息をつく、そういうオトナが目につきます。
■ 反論
「仕事はしんどい」
「生活のため」
色々な反論があるのも分かります。
仕事がしんどくないなんて思いません。
生活のためであることはもちろんです。
■ ・・・でも。
苦しそうに働く、苦しそうに生きるのって、嫌なんです。
率直に、嫌なんです。
だから、僕は、避けたいんです。
そう「すべき」という話ではないので、これが絶対的な価値観とは思っていません。
自分が、どう「したい」かです。
不可能だとは思いません。
なぜなら、現実、世の中には、生き生き働く、楽しく生きる人がいるからです。
その人達は、「生き生き働く、楽しく生きる」ことが生まれつき許された、特別な人間なのでしょうか。
僕は、そうは思いません。
証拠はありません。そう思うかどうかです。
僕が「苦しそう」だと思っても、実は本人は全然苦しくないかもしれません。
だけど、僕の見方では、やはり苦しそうな人と、生き生きしている人は明らかに違うわけです。
また、本人が苦しいとは思っていなくても、実はそれはもっと生き生きできるのに、いつのまにかそれがデフォルトになって苦しさを感じなくなっているのかもしれません。
■ 「だったらどうしろっていうの?」
そのとおりです。だったらどうしろという話です。
それを、考えるんです。
■ 思考停止に陥らない。
最近、恐ろしいと感じるのは、思考停止です。
頭が動いているかどうかではなく、自分の人生に対する思考停止です。
「自分って、こういうものでしょう」
「オトナって、こういうものでしょう」
「社会って、こういうものでしょう」
「人生って、こういうものでしょう」
こう考えたら、思考停止です。
■ 凄く身近な例を考えてみます。
例えば、12時になって同僚とグループでランチに行って、行列に並ぶ。
並んでいる間は、なんとなく、ぼーっとする。雑談をする。
食事を済ませた後、なんとなく13時が来るまで時間を潰す。
移動時間を、単なる移動時間だと捉えて、目的地に付くのをぼーっと待つ。
ランチをしながら親睦を深める、情報交換をする。
移動時間中を休憩にあてる。
確かにそういう効用はあると思います。
僕が言いたいのは、上記のようなことを、「そういうものでしょう」と考えて、思考停止したくない、ということです。
グループでランチにいく、移動時間にぼーっとする。
「ここから得られる効用は何ですか?」と考えると、上記のように効用はあるわけです。
そうではなくて、そのお昼休憩、移動時間は、その使い方がベストなのか、考えたいということです。
「効用はある」。それだけで、その選択肢を選ぶ理由にはなりません。
効用が大きい方を選ぶべきだと、僕は思います。
そして、効用の大小は、自分がなりたい自分から逆算して判断します。
だから、同じ行為でも、人によって大小の評価は当然変わります。
その上で、やはり上記のとおり過ごすのがベストだと思う場合は、そうすべきです。
だけど、「お昼休憩って、そういうものでしょう」、「移動時間って、そういうものでしょう」という考えで毎日を過ごしているのは、なんだか勿体無い気がしてならないのです。
もちろん僕もグループでランチに行くことはありますし、移動時間に寝ることもあります。
だけど、思考は停止していないつもりです。
常に、選択・判断をしているという意識でいます。
本当に、生きるということは、考えることではないかと思う程、考えるということは大切だと痛感します。
反対に言うと、考えなくなるということが、いかに恐ろしいかというのも、痛感します。
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