「全員に理解してもらおうという努力」を捨て、その代わり選ぶこと。
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① 僕の言動を、相手がどのように理解するか
② 僕の言動を聞いた相手が、それを誰に・どのように伝えるか
これを完全にコントロールすることは不可能だと思います。
努力はできるけれど、どこかで自分のコントロールから外れます。
■①について
以前の僕は、
「正しいことを言えば、ちゃんと分かってもらえる」
と思い込んでいました。
だけど、誤りだと認めざるを得ません。
理由を2つ挙げます。
①そもそも僕が思う「正しいこと」と相手が思う「正しいこと」は違う。
僕がいくら「これは正しいことだ!」と思って言っていても、相手にとってそれが正しくなければ、僕の望む通りの理解はしてもらえません。反発されることすらあります。
②正しいかどうかは関係ない次元がある。
仮に相手にとっても正しいことを言ったとしても、
「言ってることは正しいけど、言い方が嫌だ」
「言ってることは正しいけれど、あたなの言うことは聞きたくない」
と思われることだってある。
だから僕は、「正しいことを言えば、ちゃんと分かってもらえる」というのは誤りだと認めました。
そして、相手がどのように理解するかは、完全にはコントロールできないと思いました。
■②について
人は、聞いたことをありのまま他者に話すとは限りません。
聞いたことを、一部だけ切り取ったり、自分の解釈や推測を加えたり、大袈裟に言ったりします。
悪意はなくとも、ごくごく自然に。僕だって、例外ではありません。
なぜならば、人が他者に対し、「誰々がこういう事を言っていた」と話す動機は様々だから。
伝言ゲームのように、「正確に伝える」ことが動機とは限りません(伝言ゲームですら正確には伝わらない)。
■僕の考え。
悲観して、全てを諦めるのではありません。
「全員に、自分が望むように理解してもらおうと努力する」という選択肢を捨てるんです。
その代わり、「理解して欲しい人に理解してもらうことを大事にする」という選択肢を選びます。
”捨てる”と”選ぶ”を表裏一体とした、”前向きな諦め”です。
全員に理解してもらおうとするから、しんどいんです。
どれだけ説明して回っても、次から次に問題が起きます。まるでモグラ叩きのように。
■「理解して欲しい人に理解してもらうことを大事にする」とは?
わざわざ嫌われるようなことをする、という意味ではありません。
優先順位と言ったほうが分かりやすいです。
実際、理解して欲しい人にさえ、理解してもらうことは簡単ではありません。
だからこそ、優先順位を付けないと、結局全部おろそかになりかねないんです。
「理解して欲しい人に理解してもらうことを大事にする」と決めれば、
「この人にちゃんと理解してもらえるなら、あの人に理解されなくても仕方ない」
と諦めがつきます。
ですから、必死に説明して回る必要もなくなります。
それよりも、もっともっとやるべきことがあると思います。
以前の僕は、誰からも嫌われたくないし、全員に理解してもらいたいと思っていました。
だから、上記のように割り切るのが難しいというのは分かります。
だけど、「全員から理解されようとしている自分」に気付いてちょっとしんどくなったら、思い出してみてください。
”あなたは結局、誰に理解されたいのでしょうか?”