■自分の評価と他人の評価。
他人の評価・反応に一喜一憂してしまう自分は、自分の人生の主導権を握れていない、換言すれば、他人に人生の主導権を握られているような気になります。
他人の評価や反応に一喜一憂しないほうが良いと思う理由は2つあります。
①「相手に対して期待する評価・反応」と「実際の相手からの評価・反応」というのは、ズレることが多いと考えるから。
つまり、
「相手に対して期待する評価・反応>実際の相手からの評価・反応」であることが多いから。
②そもそも他人の評価というものは流動的だから。
■①「相手に対して期待する評価・反応>実際の相手からの評価・反応」
これは、人は、自分のしたことを大きく考え、人のしたことを小さく考える傾向にあるからです。
これは見えている世界が違うので、そう簡単に埋められるものではありません。
だから、一喜一憂しても仕方ないと思っています。
■②そもそも他人の評価というものは流動的。
リトマス紙の如く、他人の評価が常に一定であるならば、他人の評価は当てになります。
しかし他人の評価というものは、そもそも流動的です。
その人の基準、状況、機嫌、言い方、前提となる情報、経験、色々な要素が影響します。
だから、「そもそも流動的な他人の評価」に依存するということは、「そもそも何が◯で何が☓かも流動的だ」ということです。
■大切なのは、自分基準の確立。
それより大切なのは、「自分基準を確立し、その自分基準を満たす行動を取れているかどうか」だと思います。
他人が評価しなくても、自分がしてきた努力、残した功績はゼロにはなりません。
ちゃんと、自分の中に蓄積されます。
にもかかわらず、他人が評価しないからといって、自分でその価値を減殺してしまうのは、実にもったいない。
■自分基準の中身。
自分基準を確立するとは、人の評価を気にしないとか、他人は関係ないという話ではありません。
生きる上で、他人の評価を無視することは絶対に出来ません。
他人がなんと言おうと自分はこれで良いといって非常識なことを続ければ、人が離れていくのは当然です。
だけど、そのことと、一喜一憂することとは違います。
自分基準を確立し、実践する上では、他者の目(上司、クライアント、社会etc)を意識することは必須です。
ただ、最終的にOKを出すのは、他人ではなく、自分だということです。
自分基準を満たす行動を取り続ける(もちろん自分基準はどんどんアップデートします)。
そして、それが出来た自分に対してOKを出し続ける。
それが、自分の人生を自分の手で支配する、1つのポイントだと考えます。